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Advent20240521


ADVENT
愚か者の美学

2024.05.21.tue

適当に書くつもりがめっちゃ長くなっちゃいました。
案外、思いが強かったようです。

SNSでポストしてた通り、今シーズンからADVENTという名のレーベルの洋服を数点だけですがお店に並べています。足りてなかったピースが噛んでパチっとなった音が聞こえるようで今の店に合ってるしとても気に入ってます。

 

彼との付き合いはよくポストしあってる神戸の友達の紹介からで、割とそこから長くなりました。
この数年はなんだかんだで数ヶ月に一度はご飯に行くし、何かあれば互いに相談したりする。展示も毎回見に行っている。欲しい物はいつもあるけど、取引はありませんでした。お店に並べる理由がハッキリしなかったし、彼も同じ考えでした。

互いにとってある程度都合の良い関係である事が心地良かったのかも知れません。近いいつか、互いが持つ小さな問題を解決し合えるようになるまで時を待つような感覚でした。

彼はご飯に行くととにかく長い。帰りが遅くなる、というか必ず朝になる。内容もとにかくクダを巻き、撒き散らし、どこにも辿りつかない話を延々とする。ようはちょっと面倒くさいんです。それでも話が聞きたくなっちゃって時間を作ってしまいます。


ファッションという現象あるいはシステムは、巧みに過去や現存する他の物を否定し差異を主張する事で新しい物を生み出し、市場を成長させてきました。新しい-古い、本物-偽物、手仕事-量産品… といった二項対立により差別化され、時価を与えられる。時にそれは明文化を避け、ハイコンテクストな文脈で意味ありげに振舞う。その振る舞いもまた必要不可欠な差異としてファッションをファッションたらしめてくれます。

10年前まではそれで良かった。私もそこにずっとヒタヒタと気持ちよく浸っていたかった。日々更新されるファッションを楽しむ事で何かを否定する姿勢を示し、持続的に自分らしさを確保する事が出来た。新しい情報を求めファッション雑誌を発売日にドキドキしながら買い求めるのもとても大事な時間でした。

35歳である私は10年前、25歳です。めちゃくちゃファッション楽しんでましたし、ほんと楽しかった。そして10年経った今、私たちより上、35歳からの世代はそれなりの楽しみ方でファッションと付き合っています。毒っぽく言えば、半ばアーカイブ化された過去をヒュッと取り出して、今っぽく編集された物を見て懐かしみ、気分だよねぇ、調子いいよねぇ、って新しさもほどほどに感じ、それなりに差別化してそれなりに自分らしくなれている気になるからです。

今、20歳そこらの人は9歳10歳とか。当時、まだ下の毛も生えてない訳です。当時のインディなコンテンポラリーウェアについてはアーカイブを見て、その勢いにその時ってなんだか楽しかったんじゃないだろうかというムードを楽しむことは出来る。けどそれが具体的に何とどう違うとか、ある程度の期間継続される自分らしさと繋がるとかそんな事とは無縁です。それ故、自身で意味付を持って、或いは人の真心、人の折に触れることで所有しなければ、とても短いサイクルで消費されていきます。

この数年、特にコロナウィルスの流行以降顕著になりましたが、ファッションに限らずマスメディアが弱体化、機能が分散し個人による発信の影響力が増しました。小さな趣味世界が乱立し、その結果、世間の中心が何処にあるのかは分からなくなった。あるいは無くなりました。発信が容易になったその状況自体は私のような個人での発言に耳を傾けてもらえる機会が増えるという点で好ましく思います。その一方で、社会の端か先端にいたいような私たちは、中心が分からなければ、何を否定し、何を主張すれば気持ちよく差別化し自分らしく振舞う事が出来るのか判断出来なくなります。

インディなファッションを楽しむという姿勢は既存のメインシステムにアンチな姿勢を持ちながらファッションのゲームチェンジを外から傍観し“個性的”である事で成り立っていたからです。このような状況から、こと国内において現状のシステムだけでは、インディなファッションブランドやセレクトという業態は半ばエピローグに差し掛かっているようにも感じます。作り手も売り手も買い手もよく分からないまま、よく分からない状況で消費し続けているのかも知れません。その結果、半端な物は要らず、極端に普通な物か極端に変なもの、あるいはA MACHINEのような意味そのもので出来た既視感のない衣類を探し求めている人が増えているのもなるほど頷けます。 そしてADVENTの服は極端に普通でかつ何処か変な空気、両義的な性質を持ちます。

少なくとも、デザイナーズウェアという他のお店でも扱う事が可能である業態のウォッカでも同じ事が言えてしまいます。そして、ウォッカやワルツ(特にワルツに思います)で買い物をしてくれている人、ファッションゲームに折り合いがつかなくなってきた人達はそれでも好きな物としてファッションを楽しみたいと何かしらの意味や居場所、コミュニケーションを求めてやってきてくださっているように感じます。僕たちなりに現況に対する課題や今出来る事を考え、飯田と2人で始めたワルツというお店と同じように、ADVENTという彼が作る衣類もまた、(私が出来る範囲の中で言えば)このような時代の中でのファッションの楽しみ方を探っていくための重要なヒントが隠されているように思います。方法を問わず、何かしらのコミュニケーションで誰かが誰かに何かを言わないといけないのかも知れません。


僕はハリポタではドビーが1番好きだし、シェイクスピアの物語では道化師が王様に誰にも言えない事を愚かな振りをして進言してしまうところにドキドキする。彼らが登場し誰も気づいていない真実を密告することで物語は重要な局面に差し掛かり話は転がります。彼らは決して道楽者ではなく悲しみに満ちているのに、わざと愚か者らしく振る舞い場をかき乱す。場(社会的制約)が乱されるとあらゆる物や階層が相対化する。
なんとなくそんな愚か者達の役割や存在と彼の振る舞いが被ってしまう。勿論、彼を愚か者呼ばわりするつもりは無いし、僕は貴族でもハリーでも無い。

けど彼は道化師のようにファッションの愚かさに私を連れ出して発言してくれる。うんちくは語れば語るほど陳腐になり、ファッションが自由であると主張すればするほど不自由になる事を教えてくれる。大袈裟かも知れないですが、そんな真実を言葉で無く、服と立居振舞いだけで彼は突きつけてくるような気がします。因みにうちの父親は割と硬い仕事についてまして、真面目に何年も同じ所で働いて私を育ててくれました。DCブームとは無縁で衣類はうちの母が選びます。優しい父親です。
ADVENTはそんな父親にも着せたくなるような本当に普通でオーセンティックで綺麗な洋服を作ります。それなのにファッションブランドとして見るととても珍妙に見えてきて、既視感のない新鮮さを覚えます。めちゃくちゃ単純ですが、うちの父親でも着て満足が出来るはずの衣類で私が着ても満足出来てしまう衣類は世の中にほとんど存在していないはず。散々長い文章書いてこれだけかよ!!ですが、本当にこれにつきます。
確かに、かっこいい服は世間に山ほどあるんですが、結局の所、彼の衣類に関心を抱いてしまうのはその両義的な落とし所、センス、塩梅でしかありません。

その塩梅の正体も暴いてしまうと、ファッション大好きな変なやつが大真面目にサルトのような服を作るという構造そのものに隠されています。道化師です。だから、どこまでいっても普通でどこまでいっても変で、私はアバンギャルドな空気を感じてしまいますし、オーセンティックとしても成り立つ服が生まれます。

なんとも拍子抜けする事実ですが、一体誰かこれを真似出来るでしょうか?やっぱり彼にしか出来ない仕事で、私は見てみたくなります。重複しますが、コンセプトやディティールで明文化、説明すれば説明するほど本質的な魅力から遠のいてしまうという彼のオリジナルを感じるのです。


今回ポストしたカプリシャツなんかは“イケてる太陽”になれる気がして作り始めたそうです。そこはよく分からないでが旅行に行きたくなるセットアップだなと思います。衣類のディティールだけでは言語化しづらい妙な説得力は物を見て貰えばなんとなく掴んで頂けるような気がしてます。

どこまでも普通の服なんで出来れば直接見てもらってという事でオンラインには載せませんので店頭にて、どうかご贔屓に。

このDiaryもまたウチは他とは違いますよの活動になっているし、結局は差別化でしか自身の魅力を伝えようとする事が出来ないという事に最後の最後で気づきましたが彼に対して感じる魅力さえ伝わってくれれば今回はそれで満足です。

ウォッカコネクティングピープル
近澤

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